技術者の良心


耐震強度偽装などという前代未聞の事件で日本中がひっくりかえるような騒ぎになっている。偽装の張本人を始めとする関係者が国会に呼ばれて証言させられているが、それぞれに責任のなすりあいを繰り返していて埒が明かない。

そもそも建物の一番重要な構造部分の強度を、故意に基準を大幅に下回る設計数値にするとは、技術者の誇りと良心を全く捨てた行為であって、断じて許されるものではない。当事者は即刻一級建築士の資格を剥奪されたが当然である。

なぜこのような行為に走ったか、について当の元建築士は外部の圧力に負けたという供述をしている。生活のための苦渋の選択だったとも言っている。当然そのような状況に至った背景があることは明らかで、今現在はその背景をめぐって連日のように情報が飛び交っているが早期に解明すべきだろう。

個別にはいろいろあるにしても、おそらくこの問題のもっとも根本的な背景は、「技術者の立場が弱い」ということだろう。そしてこれは日本の社会全体に今もって広がる伝統的な風潮である。

この国では、手を動かすより口を動かす人間のほうが幅を利かせている。口だけを動かす、つまり非技術系の人間のほうが、手を動かす技術系の人間より優越しているかのような空気が全体にある。「技術には弱くってね」などと言って、暗に「技術屋なんて裏方さ」という意識が丸見えの人間がざらにいる。今回の偽装問題はこのような風潮の中で蔓延する、技術と技術者軽視の結果起きた事件であると断定できる。

たしかに技術系と言うのは裏方であることが多い。とくに販売主体の会社では圧倒的に営業などの非技術系が強い。営業とは、売るためにはなんでもありの世界である。そのために、製造や開発費用を抑えようとする営業や経営側と、品質や機能を確保しようとする技術側との間で衝突が起きるのが常である。営業・経営側の要求に対して技術側としては、絶対に譲れない一線がある。これを越えれば法を犯すとか、本来必要とする機能や性能、安全性が確保できなくなる、といった問題が発生するからである。この一線を死守できるかどうかは技術者の良心や誇りにかかっている。

製造業などにおける製品開発などでは、このあたりはうまく折り合いをつけて最終的に品質とコストがバランスした状態に落ち着く。それは実験や試作という過程があって、十分な検証が出来るからである。

ところが、建設やシステム構築などのプロジェクトの場合には、そういった過程がない。一発勝負である。出来上がってみなければわからないし、出来上がってから不具合が出ることもある。さすがに大規模土木工事などでは少ないが、中小の建物建築などではこんなことはしょっちゅう明るみに出ている。これらは技術側が営業・経営側の要求に負けて、死守すべき一線を守れなかった結果である。

それでも技術者がその企業に所属している場合には言い分も通る。問題なのは、下請けとして仕事をもらう立場にいる場合である。下請けというのは元請けのしわ寄せを一身に被る、まったく弱い立場で、いくら優れた技術や技術者を持っていても正当な評価がされず、使い捨て、十把ひとからげが常識である。異を唱えれば出入禁止となって仕事を失う。ほとんど奴隷状態である。このような状態に置かれれば、場合によっては良心も誇りもへったくれもなくなってしまうかもしれない。元請けのほうはそれで問題が発生しても責任は下請けに転嫁できる。今回の事件はまさにその典型である。構造設計というもっとも重要な部分を下請けに出して自社で責任をもたないという、この業界の体質が最大の問題であり、このことを考えると今回の事件などは氷山の一角だろうという疑念が湧いてくる。

おまけに、これに輪をかけたのが検査機関の怠慢である。検査するのも技術者だろうが、これがまったく用をなしていない、なんのための検査機関なのか。さきの元建築士は外部の圧力に負けて技術者としての良心を捨てざるを得なかったのかもしれないが、ここの技術者たちはもっと悪質である。良心云々というより、仕事そのものをしていない。複数の検査会社がいずれも同じようなことをしていたというのは、この業界全体が腐っていることを露呈している。聞くところによれば、官庁や自治体からの天下りがほとんどらしいが、公務員根性がはびこっているのだろう。

いずれにしても、技術者の仕事の多くは社会生活の基盤にかかわっている。ほとんどの技術者はこのことを自覚して仕事をしているし、世間もまたそれがあたりまえと思っている。しかし、それが崩れそうになったとき、最後の砦はやはり良心と誇りだろう。これを放棄したとき最悪の事態となる。(2006.01.25)