W杯雑感

ワールドカップが終わった。テレビの、あのやかましい軽薄なテーマソングがやっとなくなると思うと清々する。

日本チームの結果は思ったとおりだ。この手の国際競技ではいつも期待はずれの結果となるのが日本チームである。トリノの冬季五輪でも同じだった。それだけに唯一のゴールドメダリストになった荒川静香選手はひときわ輝いて見えた。

だいたいが実力以上に期待しすぎるのだが、勝ってもらいたいという願望がひとり歩きして、絶対勝つという信念に変わってしまう。一種の言霊(ことだま)信仰である。この暗示をかけるのがマスコミで、元選手などを引っ張り出し、微に入り細にわたって試合を予想させる。悪いことは言えないから、楽観的な方向へと結論を導く。そして、選手にはがんばってもらいましょう、とノーテンキなエールを送って煽り立てる。これを受けてサポーターや熱心なファンたちは「絶対勝つぞ、優勝だ」などと競技が始まらないうちから集団ヒステリーに陥る。

自国のチームがどれくらいの実力かということは、日ごろからよく見ているマスコミなどはわかっているはずである。日本におけるサッカーは歴史が浅く、世界的に見てもまだまだの水準であることはだれでも知っている。だから、当初から1次リーグ敗退を予想した人は大勢いた。にもかかわらず、「たられば」の楽観的観測のもとで過剰な期待感を煽り立てるのはいつものパターンである。もちろん一種のお祭であるから盛り上げることは必要だろうが、いささか度を越している。そのためか、さすがに一部でこの煽りに対する批判があったと聞く。

いくらテレビが予想したり、サポーターががんばって応援したって、実際に試合をするのは選手であり、チームである。ましてや相手のあることである。都合よく原理原則どおりの試合運びをするには、つねに相手の実力を上回っていなければならない。しかし、現実にはまったくその逆だった。やっぱり世界の選手との差は歴然としていた。私のようなドシロウトの目にもはっきりわかった。

それは、ゴール前の混沌とした状態での選手たちの動きである。瞬間的に事態を読んで的確に判断して動くことが外国選手にくらべて非常に鈍いし、果敢に攻めるという気迫も感じられなかった。言い換えればなにかモタモタしていてワンテンポ遅れるようなシーンが多かった。これにロスタイムのような緊迫した状況が加わるともうパニック状態である。隙だらけになったディフェンスを破って怒涛のようなシュートの嵐が襲う。いくら川口選手でもこうなると防ぎきれない。つまり、教科書どおりの試合運びよりも、このようなパニック状態で本来の実力がはっきり見えるのではないか。土壇場を制することができなければ勝利することもできないことを日本チームの試合は教えてくれた。

それにひきかえ、ヨーロッパ勢や南米勢の選手たちが次々に繰り出す華麗なわざには感嘆しっぱなしだった。これも多くはゴール前の混沌状態での競演である。そういう切羽詰った状態からとっさに出るわざなのだろう。言ってみれば「火事場の馬鹿力」である。日本チームは火事場にいてもどうすれば良いか、がわからず右往左往するだけのように見えた。

いずれにしても、、日本チームは出直しである。監督や選手を替えるだけではダメで、サッカー協会まで、すべてを刷新するくらいの覚悟がなければなにも変わらないだろう。なにしろ日本のサッカーは歴史が浅い。10年、20年の長い目で見るべきである。そのかわり、ファンもそれを自覚しなければならない。ノーテンキなマスコミに煽られてそれに乗るようではまだ未熟である。チームが弱いのはファンが悪いという見方もできる。贔屓の引き倒しで甘やかすからである。ヨーロッパや、南米の強豪チームは常に自国民から厳しい目でみられているという。日本国民ももっと賢く、厳しく日本のサッカーを見守るべきだろう。

今回のW杯と、さきのトリノのオリンピックの日本チームの惨敗を見て、日本の実力とはこの程度とよくわかった。やはり平和ボケニッポンのぬるま湯体質そのものなのか。そんななか、トリノでひとり金メダルに輝いた荒川選手と、W杯チームを引っ張ってきた中田選手がそれぞれ大会終了後に突如引退してしまったが、ふたりとも孤高の人であるだけに、その心情はよくわかる。

2年後には北京オリンピックがある。またマスコミは手ぐすね引いているだろう。メダルの皮算用などをやっているかもしれない。やかましい軽薄なテーマソングも作っているかもしれない。忘れっぽい日本人はまたぞろ煽られるのだろうか。(2006.07.12)