日本のメインフレームビジネス |
日の丸コンピュータ 日本のコンピュータビジネスは1960年代後半から本格化してきた。富士通が独自、日立製作所、NECなどが米国メーカーとの提携によるコンピュータを製造して販売していたが、都銀などの金融機関や大手有力企業では米国製のコンピュータを導入して業務の機械化を進めていた。なかでもIBMの勢力は格段に強く、常に先進的なテクノロジーで他社を圧倒していた。このIBMに対抗すべく、当時の通産省は1971年に業界再編成を行い、「電子計算機等開発促進費補助金制度」にもとづく振興策を行った。業界を、富士通と日立、三菱電機と沖電気、日本電気と東芝という組合わせで、IBM370シリーズの対抗機種を共同開発するというものである。 IBMコンパチブル路線 そのうちで大きな成果を上げたのが日立と富士通のグループである。このグループはMシリーズと呼ばれるモデルを作ることになったが、それはその設計をIBM互換にして開発するというものであった。ここでいう「IBM互換」の意味は、「IBM製コンピュータ用に開発されたすべてのアプリケーションソフトウェア、システムソフトウェアを実行でき、またIBM用のすべての周辺機器が接続できる」ことである。そのためにはハードウェアだけでなくOSも同じものをつくらねばならない。 富士通はそれまでの純国産路線を捨て、すでにIBM互換機を製造していたアムダール社と提携し、日立もIBMの情報を得るためにペイリンアソシエーツ社との間で大型機開発のコンサルティング契約を結んだ他、1977年にはアイテル社と提携した。 IBMの攻防、スパイ事件 このような情勢の下に1975年に初のMシリーズ富士通M190が出荷され、その後日立との分担で大型から小型まで、IBM370の各機種に対応するシリーズが開発された。MシリーズはIBM機との互換性、ハード性能が良く故障が少ない、安い、サービスが良いなどの理由でユーザーに受け入れられ、IBMのシェアを次第に食うようになる。IBMはこのような互換メーカーを振り切る策を次々に講じるが、日本メーカーは追随し、少なくともハードウェアについてはIBMを追い越していた。しかし、IBMは1981年に発表した超大型機のIBM3081Kにおいて、新しいOSであるMVS/SPの一部をファームウェア化し、OSコードの解析をしにくくする策を講じた。これは強力な防護策であったため、あせった日立が新OSのソースリストを中心としたIBMの技術情報を入手しようとしたのをFBIのおとり捜査にひっかかり摘発された。これが1982年6月のいわゆるIBMスパイ事件である。これにより、日立は多額の賠償金を支払い、IBMの技術情報が使用されているかどうかの製品検査を受け入れるという結果となった。一方の富士通もOSが酷似しているという点でIBMから訴えられ、IBMの著作権を認めさせられている。この事件以降もIBM互換ビジネスは続き、IBM3081相当のハードウェアとMVS相当のOSW/F4(富士通)、VOS3(日立)を送り出している。 米国のひとり勝ち このように日本のメインフレームビジネスはIBM互換ビジネスを中心に大きく発展した。その後のオープンシステム時代になってからは、各社ともSunやHPなどの最新のテクノロジーに頼り、さらにPCについてもIBM互換路線を走っている。これは日本だけでなくヨーロッパなどの諸外国も同様である。この分野における米国の技術力、開発力がいかにずば抜けているかがわかる。当面この「米国ひとり勝ち」の流れを阻止することは困難だろう。 |