永遠の三流政治

まあとにかく、このところの政局のひどさは目を覆うばかりだ。なにひとつ進んでいないではないか。
衆参ねじれ国会をいいことに、これまでの仇とばかりになんでも反対の野党連合。ねじれているのがわかっていながら、状況を甘く見てこれまでのやりかたで押し通そうとする与党。これを衆愚政治と言わずしてなんと言うのか。そこには国民不在の党利党略しか見えてこない。もとよりそれは私利私欲に根ざしているのだろう。毎日の報道を見るにつけ腹立たしさでいっぱいである。

この状態は二院制の悪い面の典型とされる。両院がいまのようなねじれ状態で勢力が拮抗していると、片方が反対すると何も決まらない。本来ならばこのことを承知していて調整するのが政治だろう。ところが現状は協議を持ちかけても聞く耳を持たない。意地の張り合いに終始している。審議がもめて長引いているというならわかる。しかし審議拒否などで業務放棄をしているのである。要するになにも仕事をしていないということになる。とんでもない話だ。このような空白状態が延々と続いているのである。そしてこの状態になった責任をお互いになすりあっているだけである。目線がまったく国民や国益に向いていない。こうなると、二院制のあり方がいったいこれで良いのか、という根本的な疑問が湧いてくるのは当然である。

参議院はいわゆる良識の府というが、いまの参議院はきわめて影が薄い。何をやっているのか見えてこない。現在の参議院は衆議院の政党主体の議員構成とまったく同じで、相違点は解散がなく任期が6年ということだけである。そこで、各党とも人物の資質よりも、あたま数を集めるために知名度を重視し、タレントやスポーツ選手などをかき集めた、わけのわからない陣容となっている。良識の府などとはまったく笑わせる。

そしてこのような議員たちはその後なにをしているのか、有権者の目にはなにも見えてこない。ひたすら多数決の数合わせに終始しているだけである。なにしろ一度当選すれば6年間は安泰である。ぬるま湯に浸かって慢然と過ごしていても、庶民から見ればとてつもない給料を手にできるのである。これでは危機意識や責任感を自覚しろといっても無理かもしれない。まさに烏合の衆である。

最近耳にする、参議院無用論はこのようなところから来ているのではないか。本来の良識の府で衆議院を監視するというのであれば、参議院は政党ではなく人物主体で構成されなければならない。党派抜きで然るべき人を集めて国民の利益や国益を守るために衆議院を見張るお目付け役を置けばいいのである。そうすればいまのような大勢の議員は必要なくなる。政党主体は衆議院で十分である。いまのような参議院であればまったく不要である。

世界情勢はどんどん変化している。民間企業ではこのような変化に対して素早い意思決定を下してすぐに実行に移すことが生き残る術である。これができなければ即敗退である。そのために企業統合や、不採算部門を廃止するなど犠牲を伴う施策を常に行っている。それだけ危機意識をもっているのである。一方で、毎日を意地の突っ張り合いでノンベンダラリと時間の浪費をしていることに国会のセンセイがたはなにも感じていないのだろうか。どうやらわれわれ有権者はとんでもない人間どもを代議員として送り込んでしまったようだ。そのつけは確実に国民にまわってきている。

むかし日本の経済は一流だが政治は三流といわれた時期があった。いまは経済も一流でなくなった。それは政治がダメだからである。永遠の三流政治なのである。しかし政治がダメなのは国民がダメだからということもいえる。情けない話だが、国民も大いなる自戒をしなければなるまい。

それはともかく、いまのドロ沼状態を早くなんとかしろ!(2008.03.25)