”はやぶさ”の快挙 | |
小惑星探査機の「はやぶさ」が帰還した。いろんな面で閉塞感や沈滞感のただよう今の日本に久々に明るい夢のある話題をもたらした。 打ち上げは2003年5月というが、その8月にはわが女房があの世に旅立った。女房は永遠に帰らないが、「はやぶさ」は戻ってきた。しかも途方もない苦難の末に予定より3年も遅れて地球にたどりついたのだ。その苦難のストーリーがいろんな世代の人たちの共感を呼んでいるという。 単純に考えて小惑星探査機などという無人の機械が地球を飛び出して、月よりもはるかかなたの小惑星のひとつを目指す、ということだけでも驚く。しかもその小惑星なるものに着陸して石ころを拾って持ち帰ろうというのだからもっと驚いた。つまりそんな遠くの天体に行って、ちゃんと仕事をして戻ってくるというのは世界初の試みなのだ。 そんな前人未到の使命を帯びて、「はやぶさ」は今から7年前に鹿児島県内之浦にあった当時の宇宙センターから打ち上げられた。帰還まで4年もかかるというので、打ち上げ後は忘れていた。ところが、その2年後に3億キロかなたの「イトカワ」に到達した「はやぶさ」から送られてきた、その小惑星の写真を見てビックリしたと同時に峨然興味が湧いてきた。「イトカワ」とは言うまでもなく、日本のロケット開発の父である東大の糸川英夫博士に因んで名付けられたものだが、その星の形を見てまさしく小惑星だと合点がいった。それは南京豆の殻ような形をした岩の塊(下の画像)で、星のかけらともいうべき姿をしている。大きさは長手方向で580メートルという。このようなかけらがたくさん浮遊しているのが小惑星群なのだ。よく図鑑などで見る予想図どおりなのだろう。
「はやぶさ」はこの画像の右の平らな部分に着陸したらしいが、宇宙的に見ればこんな小さな岩の塊に無人探査機を接近させて着陸させるという技術だけでも理系の人間には心躍るものがある。しかし、実は最初に着陸したときには機体が傾いてしまい、石ころなどの資料の採取ができない状態だったが、地上からの再着陸の指令で正常な姿勢で着陸した。ところがこんどは資料を採取する装置が働かず、予定した石ころなどは採れなかったものの、着陸時の衝撃で舞い上がった砂粒などが採れている可能性があるという。そして無事に離陸して地球への帰途についた。 ここまでは順調だったが、それからが大変だったのだ。姿勢制御装置が故障して太陽電池が太陽の方角を向かず、電力供給ができずに通信が途絶えたり、エンジントラブル、燃料漏れなどが相次いだ。そのたびに修復して乗り越えながら帰還コースに戻してきたが、結局5年間宇宙をさまよって、実に往復60億キロを飛行して帰ってきたのである。 そしてその間のJAXAの研究者・技術者たちの涙ぐましい努力と、それに応えて必死に飛び続ける「はやぶさ」の姿が、いま多くの人たちに感動を与えているのである。それは、ちょっとミーハーだが「はやぶさ」が度重なる苦難を乗り越えて戻ってきた姿に人生を重ね合わせているのだ。多くがこの手の人たちかもしれない。しかし根底はもっと深い。「はやぶさ」は宇宙で起こりうるいろいろな事態を想定して、綿密に計算され、設計され、作られている。だが、やはり予知できない事態に遭遇した。そのときに研究者・技術者が一丸となって自分たちの知識や技術を信じて粘り強く、なによりも決してあきらめないで対処してきた、その姿勢が評価されているのだ。 いずれにしても、「はやぶさ」の帰還は大きな快挙である。このような成果は1年や2年で得られるものではなく、長い目で見なければ達成できない。そこでは研究者や技術者だけでなく、ロケットや探査機を製造するメーカーに加えて、それらの部品製造において大田区などの多くの町工場の技術力が支えているといわれる。つまり日本のもの作りの叡智が凝縮されているのである。しかし、きょうのJAXAのインタビューでひとりの先生が気になることを述べていた。「はやぶさ」計画は成功したが、その瞬間からこれまでに培った技術の風化が始まるというのである。それをつぎの何に生かして行くのかの展望がないのが日本の科学技術政策だとも述べた。まさにその通りである。個々の技術ではきわめて優秀だが、これを国策として生かしていないのが日本なのだ。戦略がなく単発的に行うプロジェクトばかりで、終わってみればそのまま忘れ去られてしまう。日本人の熱しやすく冷めやすい国民性そのもので、要するに器用貧乏なのだ。だからといってこのような状況を放っておくわけにはいかない。国の政策が絶対必要である。 生活防衛一辺倒で、科学技術やもの作りなどに関して冷淡な現政権は、一般の人たちがこんなにも関心を寄せた、この「はやぶさの快挙」の意味をじっくりかみしめてもらいたい。 (2010.06.14) |
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