日蓮宗大本山 池上本門寺
一般には池上本門寺の名で親しまれるが正式には「長栄山本門寺」と称する日蓮宗の大本山である。
日蓮聖人は弘安5年(1282)秋に病気療養のため身延山を降りて常陸の湯治場に向かう途中、武蔵の国の池上宗仲の屋敷に立ち寄り、一時小康を得たものの10月13日にこの地に入寂した。享年61歳であった。
鎌倉幕府の作事奉行であり、熱心な法華経信者でもあった池上宗仲は、日蓮聖人が荼毘に付されたのち、法華経一部八巻の全文字数になぞらえて6万9384坪の土地を寄進し、日蓮の直弟子日朗上人が伽藍を整備したのが寺の草創といわれる。
その後、鎌倉、室町期には関東の有力武士たちの庇護を受け、江戸時代になると徳川将軍家の内室や紀州家の菩提寺ともなって寺格を高めた。江戸期以降も民衆の尊崇を得たが、第ニ次世界大戦では五重の塔や経蔵、宝塔、總門を除く伽藍の大半を焼失した。しかしその後の復興で往時に劣らぬ寺観がよみがえり、小高い丘のうえに多くの堂塔が立ち並んで今日に至っている。

(JTB刊「江戸東京の古寺を歩く」より)


現在、本山の周辺は商業地区や住宅地区でかなりの密集地帯となっているが、長い石段を登って行くと静けさが漂い、下界とは違った世界となる。毎年10月11日から13日までの3日間に行われる「お会式」は35万人もの参詣者でにぎわう。
本山の小高い丘はかつてはどこからでも良く見えた。しかし林立するビル群に沈んだ街からはほとんど見えなくなってしまった。とくに池上線の千鳥町と池上の間で、第二京浜を越えるあたりでは前方左手に雄大な大堂の大屋根と五重の塔が見えたが、これも今は一瞬垣間見る程度で手前のビルに遮られてしまう。まったく残念なことである。
總門 此経難持坂 三門 日朝堂 鐘楼堂
五重塔 大堂 経蔵 宝塔 大坊
總門
本門寺の正門  くぐると正面に100段近い石段(此経難持坂)がある
總門の扁額   「本門寺」は本阿彌光悦の筆によるもので摸刻として掲げられている
總門の背面を此経難持坂のうえから見る
此経難持坂
此経難持坂(しきょうなんじざか)

總門をくぐると目の前にある急な石段で、96段ある。慶長年間に加藤清正が造営したものといわれている。
桜の此経難持坂
日蓮上人像

此経難持坂を登りきった右手に建つ
三門(仁王門)
三解脱門の略。慶長13年(1609)建立の旧門は昭和20年の空襲で焼失し、現在の門は昭和52年に再建された。同54年新造の仁王像を安置する。
三門の扁額    山号を「長榮山」という
山門後面
日朝堂(常唱堂)
行学院日朝上人を勧請し、眼病平癒と学業成就を祈願するお堂
鐘楼堂
昭和20年の空襲で旧鐘楼堂は焼失し、同33年に鐘楼堂再建、同39年に梵鐘が完成した。
五重塔
慶長12年(1608)に建立された。国の重要文化財。
空襲からも免れ、建立400年を経て平成14年大改修が行われた。関東で江戸期以前の五重塔としては最も古く、最も高い。
大堂(祖師堂)
旧大堂は慶長11年(1606)加藤清正により建立された。空襲で焼失し、昭和39年に再建された。
大堂全景  
間口15間 奥行16間 240坪 棟高27.27メートルの巨大な建造物である
大堂内部  巨大な天蓋が下がる
大堂扁額   大扁額「大堂」は第80世金子日威聖人の揮毫になる
経蔵
 天明4年(1784)の再建。昭和20年の空襲にも焼け残った。
経蔵堂内
宝塔
文政11年(1828)、550遠忌を記念して、日蓮聖人を荼毘に付した地に再建された塔。第二次大戦の戦火を免れた。都有形文化財。
大坊(本行寺)
日蓮が最期を迎えた館を池上氏が寄進して開かれた寺。
山門をくぐると正面に本堂がある
本堂  「長崇山本行寺」が正式寺号
御灰骨堂  荼毘に付された日蓮の遺灰を安置してある
松濤園
池上本門寺の北側に位置する。本門寺旧本坊の奥庭として、桂離宮の建築と造園で名高い小堀遠州によって造園されたと伝えられてる。年一度の一般公開日以外は入園できない。
池上梅園
本門寺の西に位置する、大田区立の公園。高低差のある敷地に白梅150本、紅梅220本が植えられていて、茶室なども設けられている。