深大寺
深大寺は「浮岳山昌楽院深大寺(ふがくさんしょうらくいんじんだいじ)」と号する、天台宗別格本山である。開創は古く、天平5年(733)に満功(まんくう)上人によって建立された。深大寺という名は「深沙大王(じんじゃだいおう)」という水神に由来すると言われている。深沙大王は本来、疫病を除き魔事を遠ざけるとされる神で、開山満功上人の生誕にあたってこの神の功能があったため、750年に深沙大王の像を寺に安置し、寺名を深大寺としたといわれている。
当初は法相宗(ほっそうしゅう)であったが、約100年後に起きた乱の鎮静を祈念するため、朝廷の命を受けた天台宗の高僧「恵亮(えりょう)和尚」が深大寺をその道場とさだめた。乱が治まったのち、恵亮和尚は朝廷より深大寺を与えられ、そのときに天台宗に改宗した。991年には天台座主「元三慈恵大師(がんざんじえだいし)」が民衆の厄難を救うために自刻像を深大寺にうつし祀った。以来、厄除け元三大師として今に至っている。(深大寺縁起から)

深大寺は、東京で最も歴史の古い浅草寺、武蔵国分寺とならぶ屈指の古刹である。これまで近くをクルマでよく通ったが、いつでも大勢の人で賑わっているのを横目に通り過ぎて、寄ることが出来なかった。こんどやっと来ることができた。山門からすでに歴史を感じさせるたたずまいである。釈迦堂がコンクリート造りであること以外はいずれの堂宇も古色蒼然としていて武蔵野の雑木林によくマッチしている。厄除け大師堂には七五三の祈祷を受ける家族連れなどが訪れていたが、ほかの同様の寺にくらべて閑静な落ち着いた雰囲気がよかった。深大寺名物のそばを食べてみた。普通よりも白い麺でコシがあっておいしかったが、なめこそばとしてはまあまあ普通の味だった。
(2005.11.05)
「山門」
正面に「浮岳山」の扁額を掲げる。
茅葺きは東京の寺では数少ない。元禄8年(1695)の建立で山内で最古の建物。
「本坊入り口」
本坊とは住職の住む僧坊。庫裏(くり)ともいう。正面は旧庫裏。
「本堂」
本尊阿弥陀如来像を祀る。
江戸末期の大火で焼失したが、大正の初めに再建された。平成15年に大屋根改修がされている。
「鐘楼」
平成13年に新しく鋳造された鐘で平成新鐘とよばれている。先代の鐘は永和年(1376)の銘をもつもので国の重要文化財jに指定されており、いまは釈迦堂内に保存されている。
梵鐘は日に朝昼晩の3回、時の鐘として撞かれている。
写真は昼12時の撞鐘。
「元三大師堂」
江戸時代の建物で、元三慈恵大師像を祀る。厄除け大師として信仰を集めている。
元三大師堂の屋根。独特のカーブが美しい。
「開山堂」
開山の僧の像や位牌(いはい)を安置した堂。
開山堂の堂内
三尊像の両脇が満功上人か?
「深沙大王堂」
秘仏「深沙大王像」を祀る。
本尊の深沙大王像は厨子に納められ、安置されていて、この秘仏を拝することができるのは住職ひとりで、しかも一代で一回のみといわれる。
「延命観世音菩薩」
崖をくりぬいて造られた堂内に、慈覚大師自刻といわれる像が祀られている。
説明板には、「秋田県象潟で出土したものが縁あって当山に奉安された」とある。
「なんじゃもんじゃの木」
実体は「ヒトツバタゴ」という「トネリコ」の一種。
辞典によれば、
「モクセイ科の落葉高木。高さ約10メートル。葉は楕円形で、長い柄をもち、対生する。雌雄異株。五月ごろ、白い花を円錐状につける。花びらは四つに裂けていて裂片は細長い。木曾川付近および対馬に分布。」とある。
かつては明治神宮外苑にもこのヒトツバタゴの大木があって、名のわからない珍木として、「なんじゃもんじゃの木」と呼ばれていたそうで、それと同じと思われる。

「別格本山」
Yahoo辞書「大辞林」から
本山に準じた待遇を受ける、特別な格式をもつ寺院。

「法相宗(ほっそうしゅう)」
Yahoo辞書「大辞林」から
「中国一三宗・南都六宗の一。唐の玄奘(げんじよう)が伝えた護法・戒賢の系統の唯識説をその弟子の窺基(きき)が大成したもの。「成唯識論」などをよりどころとして一切の存在・事象を五位百法に分類し、すべての実在の根源は阿頼耶識(あらやしき)にあるとする。日本へは653年道昭により初めて伝えられ、のち、さらに三度伝来された。元興寺・興福寺を中心に奈良時代に盛んに行われた。現在の本山は興福寺と薬師寺。慈恩宗。唯識宗。」