興福寺
興福寺は天智8年(669)、藤原鎌足の私邸(山城国宇治郡山階)に建てられた山階寺(やましなでら)を起源とし、天武朝には大和国高市郡に移って厩坂寺(うまやさかでら)と称した。和銅3年(710)に都が平城に遷されると、鎌足の子、藤原不比等は厩坂寺を新都に移すべく、平城京左京三条七坊の地に寺地を確保して、寺名を興福寺と改めた。和銅7年(714)に金堂がが創建され、その後、北円堂、東金堂や五重塔などが建てられ、七堂伽藍の大寺院となった。奈良・平安時代に藤原氏の氏寺として栄え、平安中期以降は春日社をも支配して勢力を拡大し、法相(ほっそう)教学を研鑽する法相宗の本山となった。その後、戦火や天災によってたびたび堂塔が焼失するが再建を繰り返し、現在も中金堂を再建するなど復興途上にある。(興福寺パンフレットから)

興福寺は奈良市街にもっとも近く、境内は奈良公園と一体化しており、国道369号線からすぐに境内にはいって行ける。猿沢池からの五重塔は奈良を代表する風景としてつとに有名である。境内では現在、2010年の完成を目指して中金堂の再建中である。国宝館は多くの仏像彫刻・絵画・工芸品・典籍文書・考古資料・歴史資料などの寺宝(文化財)を収蔵し、世界的にも広く知られているという。もっとも有名な国宝「阿修羅像」を見たが、身の丈1メートルくらいで意外に小さく感じた。興福寺は有名なわりには地味な印象のお寺である。(2006.03.10)
猿沢池から興福寺五重塔を望む
東金堂と五重塔
東金堂 国宝
神亀3年(726)に創建されたが2度の火災により、現在の建物は応永22年(1415年)に再建されたものである。本尊の薬師三尊像(重文)は文治3年(1187年)、興福寺の僧兵が飛鳥の山田寺(現・奈良県桜井市)講堂から強奪してきて、東金堂本尊に据えたという。
五重塔 国宝
天平2年(730年)、光明皇后の発願で創建された。現存の塔は応永33年(1426年)頃の再建である。高さ50.8メートルで、木造塔としては東寺の五重塔に次いで日本で2番目の高さである。
三重塔 国宝
康治2年(1143年)、崇徳天皇の中宮・皇嘉門院により創建された。現在の塔は治承4年(1180年)の大火後まもなく再建された鎌倉建築である。
南円堂 重要文化財
弘仁4年(813)の創建であるが、現建物は寛政元年(1789)の再建。本尊は木造不空羂索観音坐像(国宝)で、木造四天王立像(国宝)も奉安されている。堂は西国三十三所の九番札所となっている。
北円堂 国宝
養老5年(721年)の創建。現建物は承元4年(1210)頃の再建。法隆寺夢殿と同じく平面が八角形の八角円堂。
本尊は木造弥勒仏坐像(国宝)で、ほかに国宝級の仏像数体を安置している。
春日大社は平城京の守護のために藤原氏により768年に創建された。藤原氏が勢力を伸ばすにつれて興福寺と同様、盛んに社殿の造営が行われ、平安前期には現在のような規模となった。その後興福寺の支配下に置かれるなど、興福寺との縁が深い。
春日大社二の鳥居
興福寺付近から東に伸びる
表参道を約1.5kmほど歩く。
春日大社社殿
二の鳥居からさらに600mくらい
の参道を歩く。