![]() いま、落語ブームだそうである。このブームというやつは何年かごとにやってくるが、これはレコードや出版業界が仕掛けているもので、これが落語を再評価して日本古来の芸能を保存してゆくことになればいいことには違いない。しかし、これも業界の業績目標が達成されれば終わってしまって、また下火になっていくのだろう。 そんな、うわすべりなことに関係なく、私は中学生のころから、おもにラジオで落語に親しんできてその流れがいまに至っている。寄席などでのナマの落語は数えるほどしか聴いていないが、テープレコーダーが使えるようになってから、ラジオの放送を録音してかなりたくさんの噺を集めてきた。放送は少なくなったが、いま現在もほとんど欠かさず録音している。 そのなかでたくさんの噺と噺家を覚えたが、当然好き嫌いはある。嫌いな噺というよりも嫌いな噺家はほとんど聴かない。評論家がいくら好評していても嫌いな噺家は聴く気にならない。その代わり、好きな噺家は評論家などが酷評したってとことん聴く。だいたいが落語などというものを、難しいことを書いて評論するなど必要ないのである。自分のセンスで気に入ったものを聴けばよい。こんなことを書くと頑固オヤジの典型だが、落語とはそういうものである。 そこで、私のお気に入りの噺家について超独断・偏見的に述べてみたい。ただし、昭和30年代以降に活躍していた噺家で、現役の噺家には触れない。 (順不同) |
■春風亭柳橋(しゅんぷうていりゅうきょう) |
六代目春風亭柳橋。まず、落語家なるものを知ったのがこの人である。NHKラジオの「とんち教室」のレギュラーで、いつも末席(出席点呼が最後)で青木先生(アナウンサー)に呼ばれると、ひと呼吸おいて、ダミ声で返事をするのが面白かった。何かの仕事でアメリカに行ったのが自慢で、のちのちまでその話を枕に使っていた。ゆったりした独特のリズムのあるしゃべりくちで、糸をひくような感じで歯切れはよくないものの、ことばがはっきりしているので、不思議と聴きやすかった。「時そば」、「天災」、「長屋の花見」、「笠碁」など比較的太平楽な噺が向いていたように思う。 |
■桂 三木助(かつらみきすけ) |
三代目桂三木助。柳橋と同じくとんち教室のレギュラーで、隔週に交代で出ていたように思う。声が明るく、飄々とした感じのしゃべりで柳橋とは対照的だった。あまり多くの噺を聴いたことはないが、「芝浜」はやはりダントツにいい。べらんめいをまくしたてるよりも「ねずみ」、「三井の大黒」など地味な噺が得意だったのではないかと思う。 三木助は、粋、いなせ、などとよく形容されるが、それがわかるほど噺を聴いていないのが残念である。 |
■三遊亭金馬(さんゆうていきんば) |
三代目三遊亭金馬。なんといっても、あの大きな声と歯切れのいいしゃべりが魅力で、それにてっぺんがちょっととんがったハゲ頭に出っ張った大きな前歯で迫力があった。登場人物の使い分けが巧みで、とくに子供やおかみさん、お妾などの女性の表現は群を抜いていた。話がていねいなので理屈っぽいなどと評論家からはよく言われなかったらしいが、そんなことはなくわかりやすい高座だった。後年、釣りに行って列車にはねられ足を悪くしたため、座れなくなって腰掛けて高座を勤めた。 レパートリーは長屋もの、お店もの、泥坊もの、隠居ものなど広く、十八番は「居酒屋」、「転宅」、「雛つば」、「茶の湯」、「堪忍袋」など数多い。 |
■林家彦六(はやしやひころく) |
八代目林家正蔵(はやしやしょうぞう)として長らく活躍していたが、突如正蔵を返上し、彦六になってしまった。実は正蔵の名跡は借りもので、期限が来たから返したのだという。当然とはいえ、なんとも律儀な人である。その性格に違わず噺も堅い。その堅さがむかしはあまり好きではなかったが、いま考えてみるとそれは、芝居ものや怪談ものが多く、笑いが少なかったことによるらしい。とくに芝居ものは芝居そのものがわからなくては理解できない。そんなこともあって当時はあまり聴かなかったのであるが、最近改めて聴きなおしてみるとやはり、なかなかのものである。ただ、晩年は声が震えたりして痛々しい場面が多くなった。 収集した噺は少ないが、芝居噺の「中村仲蔵」が秀逸。ほかに「蔵前駕篭」、「こんにゃく問答」など。 |
■桂 文楽(かつらぶんらく) |
黒門町と言われた八代目桂文楽。おそらく落語の正統派第一人者である。とにかく一分のスキもないほどの正確無比な噺はどの録音でもほとんど差異がない。磨きぬかれた芸とはこういうものかとつくづくすごいと思う。しかし、その完璧主義ゆえにアッという間に引退してしまった。高座でしゃべっているときに、登場人物の名前が出てこなくなったのである。とたんに、「勉強し直してまいります」といって噺を中断して引っ込んでしまった。聴きに来ていたお客さんはビックリしただろうが名人文楽の劇的な終焉に立ち会ったことになった。文楽はそれっきり二度と高座には上がらず、そのまま引退してしまったのである。 おそらく、自分の完璧な芸にほころびが出たときは即引退、という覚悟で毎回勤めていたのだろう。まさに侍のいくさでの討ち死にに等しい、文楽の命がけの美学である。こんな完璧主義だったが、普段の文楽は実に愉快なひとであったらしい。「あばらかべっそん」などという不思議なことばを発明?して人をケムにまいては喜んでいたという。 レパートリーはさほど広くはなく、長屋ものは演らず、お店(たな)ものがほとんどだが、密度の濃い噺がたくさん残っている。とくに道楽息子、幇間が主人公の噺が傑出している。たとえば「船徳」、「干物箱」、「鰻の幇間」、「つるつる」、「愛宕山」、「富久」など。ほかに「寝床」、「酢豆腐」、「悋気の火の玉」、「明け烏」、「穴どろ」などは文楽ならではの味わいがあって楽しい。 |
■古今亭志ん生(ここんていしんしょう) |
五代目古今亭志ん生。この人ほど逸話の多い落語家もそういないのではないか。それも破天荒な話ばかりである。元来のずぼら(業界では”ぞろっぺ”というそうだが)な性格と無類の酒好きからくる、一般人にはとうてい理解できないめちゃくちゃな行動は、貧乏生活をもたらし続けた。その行動によって落語仲間からも疎まれ、まったく売れない不遇な時代が長く続いたという。 しかし、そんななかでもへこたれず、腐らずに落語一筋に生きたというのは、普通にいうような不撓不屈の精神などというより、生来の楽天主義ではなかったか、と私は思う。そのかわりに家族には途方もない苦労を強いてきたのである。次男の志ん朝が「オヤジは貧乏なんかでなかった。貧乏だったのは家族だった」と述懐したというが、それが本当のところだろう。そんな時代を乗り越えて、昭和の落語界を代表する大名人のひとりにまで昇りつめ、ふたりの息子を一流の落語家に育て上げた裏には、なんといっても、おかみさん(りん夫人)の大きな存在がある。不屈の精神というなら、想像を絶する苦労のなかでも志ん生を信じ続けた、りん夫人にこそふさわしい。 志ん生の噺はとにかく面白い。というより、どんな噺でも面白くしてしまう。そのときどきでしゃべりを柔軟に変えるので、二度と同じ噺にはならない。ここが文楽との最大の違いである。だから途中で噺を忘れたって臨機応変に対応できた。対応しすぎて途中からまったく別の噺をして平気で高座を下りてきたという”事件”もあったという。 こんなにも性格と芸風はまったく対照的だったが、ふたりはとても仲がよく、文楽が亡くなったとき号泣したというくらい肝胆相照らす仲だったらしい。志ん生は後年脳溢血で倒れた。それでも2年後には高座に復帰したが、やはりろれつが多少回らなくなって、安心して聴けなくなった。その後次第に高座から遠ざかり昭和48年の9月に83年の波乱に満ちた生涯を閉じた。 噺のレパートリーは広く、ほとんどの噺を網羅しているが、やはり滑稽噺が真骨頂である。「らくだ」、「おばけ長屋」、「火焔太鼓」、「替わり目」、「強情灸」、「唐茄子屋政談」などは代表的な持ちネタで、ほかに「品川心中」、「お直し」、「居残り佐平次」、「付き馬」、「三枚起請」などの廓ものにも多く、なかでも「お直し」は文部省の芸術祭賞を受けた。また志ん生しか演らない「黄金餅」は本来陰惨な噺を志ん生流に再生した傑作である。 |
■三遊亭円生(さんゆうていえんしょう) |
柏木の師匠と呼ばれた六代目三遊亭円生。持ちネタがもっとも多い噺家といわれた。実際、滑稽噺はもちろん、人情噺、芝居噺、怪談噺までをほとんど網羅していた。その芸風は文楽ほどの正確さ、言い換えれば融通の利かなさ、ではないにしても、まぎれもなく同じである。その意味では一番安心して聴ける噺家だったように思う。なにを話してもそつなくこなし、優等生的で風貌も男前だし、音楽の世界でいえば指揮者のカラヤンと似ているな、とよく思ったものだ。 その優等生的資質を買われてか、昭和天皇の御前で「御神酒徳利」を口演し、円生の評価はいやがうえにも高まった。しかし、その後落語協会の内部での、真打を大量に昇格させる決定に異を唱えた円生は、他幹部と対立し結果的に脱退して、一門の弟子とともに落語三遊協会を設立した。しかし、翌年(1979)千葉の後援会で行われた円生79歳の誕生日の集まりで一席演った直後に心筋梗塞で急逝したのである。ところが、翌日には上野動物園のパンダが死んで、新聞の一面は「ランラン亡くなる」の記事で埋まり、円生の訃報はやっと社会面の片隅に小さく載っただけだった。一般的な関心事としては円生よりパンダのほうが高かったにしても、単に動物が死んだのに「亡くなる」などという前代未聞の記事を書いた新聞社のアホさ加減に、ア然・ボウ然としたものだが、このごろそのような傾向はますますひどく、テレビがペットなどに敬語を使ったりして平気でいる、この日本は一体どうなってしまったのか。 それはともかく、円生の最期はずいぶん哀れなものだったなぁ、と同情を禁じえなかったが、最近、世田谷区の北部にある、烏山の寺町を巡っていた折に偶然、永隆寺という法華宗のお寺に三遊亭円生のお墓があることがわかった。残念ながらお参りは出来なかったが、立派なお寺で美しく手入れされた境内があって、ここに円生が眠っていると思うとなにか安心して、うれしくなって帰ってきた。 たくさんの噺のなかでは、「小言幸兵衛」、「寝床」、「子別れ」、「御神酒徳利」、「浮世床」、「浮世風呂」、「八五郎出世」、「唐茄子屋政談」、「文違い」などはほかの噺家も演るが、円生独自の「死神」、「百川」などもよく高座にかけていた。このほか芝居噺、人情噺、怪談噺にも傑作は多い。 |
■柳家小さん(やなぎやこさん) |
五代目柳家小さん。落語で初めて人間国宝になった。もうちょっと早ければ、文楽だって志ん生だって円生も人間国宝になったかもしれない。しかし、この先落語で人間国宝がでることはないだろう。だから、小さんは最初で最後の落語・人間国宝だと私は断言する。 小さんは、ひと目で落語家とわかる、丸っこいいがぐり頭の風貌で、演台に出てくると、さぁ落語がはじまるぞ、という期待感を抱かせたが、どうも初めのうちはボソボソと、よく聞き取れないことが多く、そのうちだんだんと調子が上がってくるタイプのようだった。得意はもっぱら滑稽噺で、他はほとんど聴いたことがない。そのなかでも職人を演らせたら右に出るものはなく、カン高い声で「まッぴらごめんねィッ」が出るともう最高潮である。江戸っ子の威勢のいい、ちょっとおっちょこちょいの職人がべらんめいをまくしたてる。小さん落語を聴いているという至福のひとときである。 小さんがほかの噺家と違うのは、この世界にありがちな、飲む、打つ、買う、とはあまり縁がなかったという品行方正ぶりである。年代が多少若かったせいかもしれない。そのかわり、やっとう(剣道)が好きで自宅に剣道の道場を作って毎日竹刀を振っていた話はよく知られている。 もう30年以上前になるが、渋谷の東横ホールで定期的にやっていた東横落語会に行ったときに、腹ごしらえをしようと、デパート内の蕎麦屋にはいって食事していたところ、鳥打帽に鳶の外套をはおって、黒い革靴をはいたおじさんが若いもんをつれてはいってきた。はじめはわからなくて妙な格好をしているなぁと、思っていたが、そのおじさんが席について鳥打帽をとると、なんと小さんだったのである。師匠もこれから一席演じるにあたって腹ごしらえをしにきたのだろうが、まわりの一般人はほとんど気がついていない様子だった。なにを食べていたのか定かではないが、素顔の小さんはむっつりとした、ちょっととっつきにくい感じだったことを憶えている。いまから思えば、サインでももらっておけばよかった。 放送された噺の数は群を抜いて多いので、得意な出し物もきわめて多い。「三軒長屋」、「粗忽長屋」、「三人旅」、「うどん屋」、「粗忽の使者」、「へっつい幽霊」、「言い訳座頭」、「禁酒番屋」、「らくだ」、「御慶」など枚挙にいとまがない。 |
■三笑亭可楽(さんしょうていからく) |
八代目三笑亭可楽。上記の文楽、志ん生、円生などのような押し出しはないが、独自の芸風を確立していた。早口ですこし舌がまわらないしゃべりで声も低く、ちょっととっつきにくいが、聴きこむにつれ味がでてくる、するめみたいな芸風であった。滑稽噺が中心で志ん生や小さんとダブる噺は多いが、違う雰囲気で聴く噺はまた新鮮で味わい深い。 「らくだ」、「二番煎じ」、「反魂香」、「三方一両損」、「野ざらし」などを得意とした。 |
■三遊亭円遊(さんゆうていえんゆう) |
四代目三遊亭円遊。ちょっと舌足らずのようなしゃべりで、陽気で明るく、なにかほんわかと暖かい感じがして好きな噺家である。幇間をやっていた時期があったというが、その経験がそのような芸風を作ったのだろうか。 やはり滑稽噺が主体で、「二番煎じ」、「野ざらし」、「味噌蔵」、「堀の内」、「置きどろ」は十八番だった。 |
■桂 小南(かつらこなん) |
二代目桂小南。東京で上方落語を専門に演ずる異色の噺家として人気があった。とにかく上方弁の淀みのない口調で、聴いていて気持ちがよかった。これは関西で活躍する上方落語家の口調とも違う独特のもので、小南の確立した芸風だったのだろう。 得意とする噺は、「三十石」、「宿屋仇」、「七度狐」、「いかけや」、「野崎参り」など。 |
■桂 文治(かつらぶんじ) |
十代目桂文治よりも、二代目桂伸治(かつらしんじ)と言ったほうがわかりやすいかもしれない。大きな目をむいてちょっとハスキーな高い声で演じる、もの売りの売り声は本当におかしく、それでいてとぼけた味わいがあって理屈ぬきに落語の楽しさを教えてくれた。 滑稽噺ひとすじで、「だくだく」、「豆屋」、「やかん」、「二十四孝」、「源平盛衰記」などが代表的。 |
■金原亭馬生(きんげんていばしょう) |
十代目金原亭馬生は五代目古今亭志ん生の長男として落語家の道にはいったが、父親と弟の志ん朝との間に挟まれて、多分に損をしたように思えてならない。落語の腕前は良く、父親とは違った芸風を生み出した。地味で落ち着いた語り口だが、どちらかと言うと玄人好みで一般受けはしなかったかもしれない。たしかにラジオの放送にのる機会もそう多くはなかったが、地道に精進して熱心なファンを多く獲得した。しかし、惜しいことに54歳という若さで他界してしまった。その原因は過度な飲酒だったといわれ、とくに晩年には破滅願望があったともいわれる。 あまり多くは聴いたことがない馬生だが、派手でない、動きの少ない噺が合っていたように思う。「笠碁」、「不精床」、「花筏」、「世は情け浮世の横ぐし」など。 |
■古今亭志ん朝(ここんていしんちょう) |
三代目古今亭志ん朝。志ん生の次男として兄の馬生とともに落語家を継いだが、みるみるうちに頭角を現わし、押しも押されもしない大落語家になった。しかし、六代目志ん生を目前にして63歳で他界してしまった。その芸風は父親とはまったく違った正統派で、テンポが速く歯切れのいい口調で、なにを演ってもうまかった。文楽や円生、志ん生の持ちネタもどんどん取り上げて志ん朝独自の境地を開いた。 「鰻の幇間」、「三方一両損」、「火焔太鼓」、「品川心中」、「へっつい幽霊」、「船徳」、「つるつる」、「饅頭こわい」、「時そば」、「子ほめ」などスタンダードな出し物は網羅している。 われわれファンにとっては、志ん生とは五代目志ん生のことであり、志ん朝とは三代目志ん朝のことなので、六代目志ん生は実現しなくてよかった、というのは言いすぎだろうか。そして、できればこの先、このふたつの名跡はほかのだれにも継いでもらいたくない、というのは暴論だろうか。 (2006.05.21) |
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