![]() 屋久島 宮之浦岳 1935m 九州最高峰 |
1965年の夏に、山好きのT君が行くと言うので同行した。目的は屋久島の山を通って島を南から北に縦断することにあった。いまでこそ、屋久島は世界遺産に指定されて有名になり、観光客が押しかけて、空港まであるが、当時はまず東京から20数時間の列車に揺られて、蒸気機関車の煤で真っ黒になって西鹿児島駅に降り立つ。そこに一泊して翌日連絡船で種子島経由で5時間ほどかけて屋久島に着く。ここまででもう2日半である。しかし、船の旅はのんびりしていてよかった。煙をはく桜島を眺めながら鹿児島湾をでると、船の横を、とびうおが競走するように水面すれすれに飛んでいたり、平べったい種子島と対照的に海面にそそり立つ屋久島の姿は衝撃的だった。 上陸地は安房で、船は接岸できないので艀に乗り換えて上陸する。安房で一泊し、翌朝から山にはいる。当時は営林事業が行われていて、屋久杉が伐採されていた。その集積地である小杉谷という集落と安房の間には材木を運ぶトロッコの線路が敷かれていて、その線路を登山道としても使っていた。ときどきトロッコがおりてくるので気をつけながら登る。ほぼ一日がかりで終点の小杉谷に着く。ここは小学校もあるちょっとした集落である。夏休み中なので教室の片隅を借りて泊る。 翌日から本格的に山に分け入る。うっそうとした原生林を行くのでまったく視界が利かない。ときどき屋久鹿の鳴き声がきこえたり、サルとおぼしき影をみたりしながらひたすら歩く。半日ほどでやっと森林限界を抜けて視界の開けた場所にでる。ここにテントを張って一泊することにした。ところが、夜中に雨が降り出した。屋久島は月に35日雨が降るというくらいで、それまで雨にあわなかったのはラッキーだったが、とうとう降られた。しかも相当強い。心配しながらまんじりともしないでいたら、テントの周りに水が溜まりだした。もう眠るどころではなく、そそくさとテントを撤収し、まだ暗い中を出立した。夜中行軍となったが、幸い夜が明けてから雨はやみ、陽がさしてきた。当初の予定では安房のちょうど反対側にある、宮之浦を目指して歩いていたが、どうも様子がおかしい。地図上ではたしかに道はあるのに、道がだんだんと細ってきて道らしくなくなってきたのである。それでも背丈を上回るクマザサをかきわけながら進んだが、とうとう道が尽きてしまった。これはまずいと、クマザサの葉っぱにたまった昨晩の雨でパンツまでずぶぬれになりながら退却し、やっと見晴らしの利くところまで戻った。もう一度地図を確認して予定を変えて、永田部落に降りることにした。風の心地よい岩の上にすわってしばしの休憩をとったが、おかげで衣服はほとんど乾いてしまった。その日のうちに永田に降りるのは無理と判断して、どこか泊る場所を探していると、クマザサの原っぱからひょっこり男女の登山者が現われた。聞いてみると近くに避難小屋があってそこに行く途中だという。同道させてもらってその晩はそこに泊った。避難小屋といっても雨をしのげる程度のシロモノだったが水場もあり、ゆうべのことを思えば安心して眠れた。 翌朝、天気はよく、絶好のコンディションである。宮之浦岳を仰ぎ見ながら、永田岳の横を通り、再び原生林のなかを永田川の谷沿いを下る。15時ごろに永田の部落に着き、宿屋を見つけて投宿。もう疲れきって限界に達していたので、このときばかりは心底ホツとして、久しぶりのまともな食事にありついて、そのおいしかったことはいまでも憶えている。屋久島上陸から5日目のことである。翌日、永田からバスで宮之浦港へ行き、船で帰路についた。 結局、屋久島には6日間いたことになるが、いま思うと無事に縦断できたのは、雨にあったのがひと晩だけだったからである。もし山の中で雨が続いていたら、縦断はおろか、場合によっては遭難していたかもしれない。まったく運が良かったことを感謝するばかりである。 |