曹洞宗大本山 總持寺
能登の總持寺が明治34年に焼失したため、明治40年に現在の神奈川県横浜市鶴見の63000坪の広大な土地に移転することが決定された。
明治44年に放光堂が竣工したのを皮切りに、昭和44年の山門竣工まで58年の歳月をかけて12の伽藍が建設された。このため、伽藍の建築様式は木造ばかりでなく、コンクリート造りもあり能登の祖院とは趣が違う面がある。また、鶴見という東京と横浜に挟まれた都会にあって便利な反面、俗化は避けられないが、とにかく境内は人の往来が多い。
これは總持寺経営の大学、高校などが同じ敷地内に併設されているほか、近くにある競輪場への抜け道になっていたり、さらに近年、石原裕次郎の墓が移転してきたことなどからで、いわゆる静謐、深山幽谷など禅寺のもつイメージからは遠くかけ離れてしまっている。
檀家の一員としてまことに残念に思うことである。
總持寺俯瞰
参道 総門 三門 三松閣 香積台
勅使門 大僧堂 宝物殿 大祖堂 仏殿
放光堂 紫雲台 百間廊下 大鐘楼 新到和尚上山
参道
「大本山総持寺」石柱
総門(三樹松関)への参道 「白字渓」と名づけられている
総門 三樹松関」
総門の扁額 「三樹松関」
能登の祖院総門 同じく「三樹松関」
三門

鉄筋コンクリート造で、昭和44年に再建された。門の正面左右に金剛力士像(阿吽の仁王像)が納められ、三門楼上には観音・地蔵の放光菩薩像、十六羅漢像、四天王像が祀られている。

背面
扁額「諸嶽山」

平成救世観音
三門の横にある丘の上に立つ、この聖観音菩薩像は東日本大震災の犠牲者の慰霊と被災地復興を祈るために2013年3月にそれまでの仏殿の横の位置から移設された。東北方面を向いて建立されている。
三松閣
総合案内や檀家信徒の修行道場などがある。
香積台(こうしゃくだい)
総受付がある   大正9年(1920)3月竣工
平成11年から12年にかけて解体修理、免震補強工事がおこなわれた
勅使門(向唐門)
勅使門は向唐門(むかいからもん)ともいう
向唐門から「中雀門」越しに「仏殿」を見る
大僧堂
 修行僧が座禅を行う場所
宝物殿
宝蔵館「嫡々庵」と称し、宗教的・美術的・学術的に重要な文化財を所蔵している。昭和49年(1974)建立。
大祖堂
総持寺の本堂で、昭和40年、二祖・峨山禅師の600回大遠忌を記念して、竣工・落慶した。
間口30間(約54.5メートル)、奥行26間(約47.3メートル)、高さ118尺8寸(約36メートル)、総床面積1023坪、 鉄骨鉄筋コンクリート建
仏殿
七堂伽藍の中心部に配置されている殿堂で、禅宗の本尊である釈迦牟尼如来(坐像、木彫)を祀っている。大雄寶殿(だいゆうほうでん)ともよばれる。

扁額「大雄寶殿」
内部正面と本尊
放光堂
全国檀信徒の永代供養の位牌を祀る。
安政年間に山形・鶴岡の龍穏寺本堂として建立され、總持寺移転に際して特別に献納された由緒があり、当時は、大祖堂として中心的な役割を果たした。
明治44年(1911)11月5日、總持寺が能登から移転して最初に法要が営まれた記念すべき建物となっている。
紫雲台(しうんたい)
總持寺の貴賓応接のための建物。本山貫主、住持や禅師が宗門の僧侶、全国の檀信徒と親しく相見する大書院。
紫雲台正面
百間廊下
伽藍をつなぐ百間廊下修行僧により毎日磨き上げられる
大梵鐘と鐘楼
大正2年(1913)に、1万6千人からの淨財によって鋳造され、関東一の大きさを誇る
新到和尚(新修行僧)上山
修行僧となるために全国の寺院から派遣された僧たちはこの「待鳳館」の前でひとりずつ木版三打し、「新到(しんとう)よろしゅう!」と呼ばわる。その場で客行(かあん)和尚が出迎えるまで立ったまま数時間待つ。これが最初の修行となる。このように各地で個々に活動している僧侶たちが一定期間、一か所で集団で修行することを「安居(あんご)」という。