碓氷峠鉄道文化むら |
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碓氷峠といえば、かつて信越本線の横川から軽井沢までの峠越えをするのに、トンネルや橋梁と急勾配が続き、そこを列車がをあえぎあえぎ登る難所中の難所であった。いまは新幹線が山の中の長大なトンネルをくぐって、いとも簡単に軽井沢にやってくる。1997年長野新幹線開通によってこの碓氷峠越えの線路は廃止されてしまった。廃止になる日の数日前に軽井沢に所用があって「特急あさま」でこの峠越えをした。平地では軽快に走る189系特急電車も、ここの日本屈指の急坂を自力では登れないので、横川駅で補助機関車のEF63形電気機関車2両が連結され、後ろから押し上げる。それでも電車はモーターを唸らせながらゆっくりゆっくり登ってゆく。実際、特急電車がこんなにゆっくり走るのはここだけだっただろう。なにしろ幹線では日本一の66.7‰(パーミル;1000メートルを走る間に何メートル上がるかを表す指標)という急坂が続くのである。
碓氷峠越えの鉄道が最初に開通したのは1892年(明治28年)のことである。1891年に着工して1年9ヶ月で完成した。このときは急坂を登るのにアプト式という、2本のレールの間に敷かれたラックレール(凹凸のついたレール)と車軸に取り付けた歯車をかみ合わせて機関車を推進する方式が採用された。しかし、特殊な装置を必要とすることで機関車も特殊になるとともに、線路の保守の面などからも不利な点が多かった。このため、アプト式をやめて、一般的な車両と同じようにレールと車輪の粘着力による粘着運転方式に変更することが検討され、最大勾配を従来と同じままで、その代りに補助機関車を連結して粘着運転化する新線を建設することになった。1961年に着工して2年半後の1963年7月にまず単線で開通した。この時点でアプト式の線路は廃止され、約70年の歴史の幕を閉じた。新線は1966年にはさらに1線がつくられて複線となった。
この碓氷峠越えの鉄道建設にあたっては峠越えルートの選定や、コストと技術的な問題を巡って大もめにもめたと言われる。当時は英国やドイツなど外国の技術者を招聘して調査や技術的な助言を得ていたが、それぞれの国の思惑も絡んで決定に多くの時間を費やした。最終的にはドイツから提案されたアプト式による急勾配登坂方式を取り入れることで着工にこぎつけた。そして1年9か月後の1892年12月に工事は完了し、延長11.2km、18の橋梁と26のトンネルに66.7‰(パーミル)の急勾配をもつ日本最初かつ最大のアプト式鉄道が開通したのである。
いまこのような事実を知るにつけ、115年も昔にあの急峻な峠越え鉄道を2年足らずで完成させたということはまったく驚きである。因みに目下工事が進んでいる東急東横線の渋谷−代官山間の地下化工事は約1.5kmを建設するのに足かけ5年もかかるという。最新の技術と建設機械を駆使して、既存の町の下にトンネルを掘り進めるのと、未熟な技術と人力を主体に、険しい山の中にトンネルを掘り、深い谷に橋を架けるのとではどちらが困難かはすぐにわかる。民間事業者の仕事と国を挙げての大事業との違いなのか、単純に比較はできないにしてもなにか腑に落ちない。
廃止された碓氷峠越えの拠点であった横川駅に隣接する横川機関区跡地には「碓氷峠鉄道文化むら」という鉄道公園が開設されている。碓氷峠交流記念財団というところが運営している。公園内には当時の検修車庫がそのままの姿で鉄道展示館として残っていたり、広大な野外展示場には旧国鉄時代に活躍した蒸気機関車、電気機関車、ディーゼル車、特急形電車、客車など50台ほどの車両が並べられている。コレクションとしては大規模なものだが、見方によっては車両の墓場のような印象である。架線もないのにパンタを上げている電気機関車はどこか虚しい。
そんな中での出色は、動態保存されている、碓氷峠の主(ぬし)たるEF63形電気機関車である。2両が留置線に停まっていた。この機関車は運転体験コースというきわめて興味深いイベントに使われるもので、きれいに整備されている。運転体験コースとは、一定の講習を受けて試験に合格すれば一般人でもEF63を運転できるというものである。よくあるシミュレータではなく、実機の運転台に座って、旧信越本線の線路の一部の400メートルを30分ほどで往復運転するという。これはいつか挑戦してみたいと思う。
この公園からは旧信越線の線路をそのまま使って2.6km先までトロッコ列車が運行している。さらに線路に並行して約5km先の「めがね橋」と呼ばれる、アプト時代のアーチ橋まで旧アプト線路跡を歩く、「遊歩道アプトの道」が整備されている。ちょっとしたハイキングコースだが、途中にはトンネルや橋などの遺構がそのまま残っており、115年の歴史を刻む文化資産を目の当たりにできる貴重なコースである。現在、この横川−軽井沢間の正式な鉄道を復活する動きがあるという。そうなるとまた、急坂をEF63に押されてゆっくり登る列車に乗れる日が来るかもしれない。(2008.08.31)
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アプト式電気機関車 ED42形1号機 検修車庫内に保存されている。この1号機は1934年(昭和9年)に製造されたが、D42形としてはその後1948年(昭和23年)までの間に28両が製造された。 |
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機関車の駆動部。
アプト式はラックレールに車体側の歯車を噛みあわせて動輪がスリップをしないように歯車に動力をかけながら進む。そのための動力装置は車体中央部に置かれ、1基の専用のモーターで歯車を動かす。走行用の動輪はボギー台車2台からなる4軸で、それぞれの台車では車軸の間に1基ずつ搭載されたモーターの回転をジャック軸と呼ばれる回転軸に伝え、接続された連結棒で車輪を駆動する。見かけは蒸気機関車の動輪のような恰好である。
また、トンネル区間の高さ制限からED42形は第三軌条(レール)方式で電力を取り入れていた。そのための集電靴が車体の下部に取り付けられている。(写真の右はじに見える赤い部分)
パンタグラフを1基搭載しているが、本線上ではおろして走行し、停車場構内で上げて使用したといわれる。
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屋外車両展示場
こんな具合に50両ほどが静態保存されているが、電気機関車には架線がほしい。 |
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D51形蒸気機関車96号機
デゴイチと呼ばれるD51形機関車は1936年に登場し、1945年までの間に1115両が製造された。この96号機は初期型だが、ボイラー上の煙突から後ろにかけての盛り上がりが特徴で、その形から「ナメクジ型」と呼ばれた。 |
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碓氷峠のヌシ、EF63形電気機関車。25号機と12号機。このほかの2両を加えて動態保存されていて、運転体験コースで使われる。手前の線路は旧信越本線で、いまはトロッコ列車が通行する。
EF63形電気機関車は碓氷峠専用補助機関車で、1962年に登場し25両が製造された。峠越えのために強化された電動機やブレーキ装置をもつ。常に2両一組の重連で電車、気動車、客車。貨物を問わず、碓井峠を通過するすべての列車に連結された。横川駅と軽井沢駅で対象列車の横川側に連結され、峠を登るときは押上げ、下るときは抑速ブレーキとなり、峠のシェルパとして働いた。
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EF63形の軽井沢方向正面
あらゆる種類の列車と連結するために、連結器は密着式・自動式双方に対応できる双頭型。ジャンパ(車両間で電気的連携をするケーブルを接続するソケット)も10種類を備えている。そのほかにもブレーキ用の空気管を4本もっている。 |
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トロッコ列車。 「ぶんかむら」駅から「まるやま」駅を経由して「とうげのゆ」駅まで2.6kmを20分で走る。
機関車は保線で使われていたといわれるDB201形ディーゼル機関車で、終点に着くとそのまま引き返してくるプッシュプル運転をしている。線路は旧信越本線の下り線をそのまま使っている。上り線路は舗装されて遊歩道アプトの道になっているが、レールが残り、一部区間は架線も張られたままに残っている。 |
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アプト式ラックレール。 このレールに車両側の歯車がかみ合って進む。右側には電力供給用第三レール。(木製の危険防止カバーの下にレールがあるはずだが、ここでは見えない)
アプト式はいまでもヨーロッパなど海外の登山鉄道では使われているが、日本では大井川鉄道の井川線の一部に使われているにすぎない。 |
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妙義山(1655m) そそり立つ奇岩群は上州の名物、見る方角によって姿が大きく変わる。 |
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旧信越本線の線路跡。
右側は下り(軽井沢方向)でトロッコ列車の線路として使われている。左側は上り(高崎方向)で遊歩道になっている。レールが埋まっているし、架線もまだ張られたままになっている。(まるやま駅近く) |
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急勾配の線路。急坂になっているのがよくわかる。おそらく60‰くらいの勾配ではないか。(とうげのゆ駅近くから横川方向を見る) |
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旧アプト線跡の遊歩道を往く。このさきトンネルが6か所ほどある。 |
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通称「めがね橋」の碓氷第3橋梁。この上をアプト線が走っていた。 国指定重要文化財。
1891年着工し、1893年に竣工した。全長91メートル、高さ31メートル、4連アーチ式で200万個のレンガが使われているという。国内に現存するレンガ作りの橋のなかでは最大級といわれる。遊歩道はこの橋をわたって終点となる。 |
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めがね橋に並行して架かる旧信越本線の橋梁。手前が下り線でその向こう側に上り線が見える。架線もそのまま残されているようで、碓氷線復活の布石か? |
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鉄道総合ページ:「鉄道少年のなれの果て」
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