薬師寺
薬師寺は680年の天武天皇の発願により飛鳥の地に創建され、710年の平城遷都に伴い現在地に移された。
南都七大寺(東大寺、興福寺、薬師寺、元興寺、大安寺、西大寺に、法隆寺または唐招提寺を加える)のひとつとして、当時日本随一の伽藍を誇ったといわれる。伽藍には金堂を中心に東西両塔、講堂、回廊が建ち並ぶなか、金堂や塔には裳階(もこし)と呼ばれる、各層の屋根が二重になった独特の造りが施されているのが特長である。
他の寺院と同様これまでに幾多の災害に遭い、享禄元年(1528)の兵火では東塔を除く諸堂が灰燼に帰した。その後江戸時代に金堂と講堂が再建されたが、昭和の時代まで創建当時の華麗さを偲ばせるのは焼け残った東塔だけという状態が続いた。昭和42年(1967)に薬師寺白鳳伽藍の復興が発願され、写経勧進による復興事業が進められて昭和51年(1976)に金堂が再建されたのをはじめ、西塔、中門、回廊、大講堂などが次々に再建された。さらに昭和65年(1991)には玄奘三蔵院伽藍が建てられ、法相宗大本山として新たな繁栄の時代を迎えている。

薬師寺は優雅な三重塔と薬師三尊のお寺として有名だが、それに加えて名物管主高田好胤さんの存在が目立ったお寺である。高田好胤さんのお蔭で創建当時を思わせる伽藍に復興したからである。
実際に訪れて思うのは、周辺のお寺に比べてなんて壮麗なんだろうということである。新しいだけでなく、建物の形そのものが華麗なのである。唯一の奈良時代からの東塔を見てもそう感じる。それはやはり裳階(もこし)様式からくるのだろう。三重塔の各層の屋根がそれぞれ二重に造られた複雑な構造をしていて独特の美しさを作り出している。それが大きな金堂にも使われていてさらに華麗さを増す。1300年もの昔にこのような建築物を造った先人のセンスと技術にはまったく脱帽である。
この裳階の複雑な構造がリズム感を感じさせるところから「凍れる音楽」と形容されているが、その意味するところはなんであるか、残念ながら凡人の私には理解できない。(2006.03.11)

薬師寺興楽門 近鉄「西ノ京」駅から白鳳伽藍への入り口
東塔 国宝・白鳳時代

各層に裳階(もこし)をつけているため、六重塔に見えるが、三重塔である。下から1、3、5層が裳階である。最上階の屋根にある相輪の頂上の水煙は4枚からなり、その中には24体の飛天が透かし彫りされているという。

唯一焼け残った奈良建築だが、よくぞ残ってくれたと思わざるを得ない。


「春の空よくぞ残れり東塔」
西塔

旧西塔は享禄元年の兵火で焼失し、昭和56年4月に453年ぶりに創建当初の白鳳様式で再建された。1300年の風雪に耐えた東塔とは対照的な趣である。


「白鳳の春もかくやと西の塔」
金堂 各層に裳階(もこし)をつけた龍宮造りで建てられている。
本尊は国宝・薬師三尊像で薬師如来を中心に右が月光(がっこう)菩薩、左が日光菩薩の三仏像が正面に安置されている。脇時の両菩薩像はそれぞれちょっと腰をひねった形の動きのある美しい姿をしている。
大講堂  伽藍最大の建物で、正面41m、奥行き20m、高さは17mある。講堂が金堂より大きいのは古代伽藍のきまりという。本尊として弥勒三尊像(重文・白鳳〜天平時代)が安置されている。
東院堂 国宝・鎌倉時代
奈良時代の養老年間(712〜724)に元明天皇の冥福を祈り、発願建立されたが、天禄4年(973)の火災で焼失、弘安8年(1285)現在の地に建替えられた。
東西塔・金堂 中門付近から    「並び立つ薬師の塔に風光り」
薬師寺東西塔・金堂遠望
玄奘三蔵院伽藍  正面の門は礼門 中には玄奘塔と大唐西域壁画殿が建てられている。
玄奘塔(げんじょうとう)  法相宗の始祖・玄奘三蔵の頂骨(あたまのてっぺんの骨)を真身(しんじん)舎利として奉安する。うしろにある建物は大唐西域壁画殿で、平山郁夫画伯によって30年の歳月をかけて完成され、奉納された壁画を本尊としている。
慈恩殿  縁起不明
境内の梅