時宗総本山 藤沢山清浄光寺(遊行寺)
藤沢山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)はまたの名「遊行寺(ゆぎょうじ)」として知られる時宗の総本山である。
時宗(じしゅう)は一遍上人(1239〜1289)を宗祖とし、南無阿弥陀仏のお札を配りながら各地を回って修行(遊行という)する踊り念仏の宗門である。この清浄光寺はこうした遊行上人の寺ということで広く一般に遊行寺と呼ばれている。開山は遊行四代の呑海(どんかい)上人で、正中2年(1325)この藤沢の地に開かれ、時宗総本山となった。以後、遊行上人は引退するとこの寺に住み、藤沢上人と呼ばれて全国の時衆(時宗)を指導するようになったという。伽藍はたびたび火災に遭い、現在の伽藍は明治30年(1897)の再建による。

藤沢駅から徒歩10分の旧東海道沿いの小高い丘に建つお寺で、地理的に近い鎌倉の幾多のお寺とともに歴史を刻んできたと思われるが、時宗という地味な宗派らしく伽藍も質素である。特徴ある形の総門は黒門と呼ばれ、日本三黒門のひとつと言っているものの、ほかのふたつの黒門とは何だか不明である。総門をくぐるとゆるい上りの参道がまっすぐ伸びている。左に真浄院、右に赤門の真徳寺などの塔頭を見て登りきったところが境内である。正面に樹齢700年の大イチョウの大木がそびえる。境内は広いがそこかしこにクルマが駐車している。どこでもそうだがお寺には必ずと言っていいほどクルマがいる。建物の写真を撮ろうにも邪魔になってしかたがない。

境内にはいると右奥に本堂、左に本山で最も古い建物の中雀門がある。右手には一遍上人の銅像が建ち、そばに延文元年(1356)に鋳造されたといわれる銅鐘が下がる鐘楼堂がある。境内の一角にはこの寺の開基となった地頭俣野五郎景平(呑海上人の実兄)を祀ったささやかな俣野大権現がある。総本山といっても鎌倉の諸寺院にくらべてまことに簡素な感じのお寺だが、一遍上人の「法師のあとは跡なきことを跡とす」として宗派を立てることや寺を建立することをしなかった精神をいささかでも継いでいるのだろう。(2008.03.03)

総門(黒門)
鳥居の変形のような独特の形をしている。日本三黒門のひとつというが他のふたつはわからない。
赤門真徳寺
塔頭(たっちゅう;山内寺院)のひとつ。清浄光寺の山内寺院はほかに真浄院、長生院がある。
大イチョウ
樹齢700年という。
本堂
木造銅葺きで木造としては東海道随一と言われる。関東大震災で倒壊し、昭和12年に再建された。
中雀門
安政6年(1859)の建築物で、度重なる火災にも焼け残り、関東大震災で倒壊したが、そのまま復元されて山内で最古の建築物である。向唐門(むかいからもん)様式で作られている。
一遍上人像
時宗の宗祖として仰がれる一遍上人は延応元年(1239)に伊予道後に生れ、10歳で出家以来20数年間の修行ののち、独自の念仏信仰を確立し、文永11年(1274)に日本国中を念仏賦算(お札くばり)と踊り念仏の遊行の旅に出発し、正応2年(1289)に51歳で兵庫の真光寺で没した。その間25万人以上の人々に念仏札を配ったといわれている。
清浄光寺とは直接の関係はない。
鐘楼
ここに下がる銅鐘は延文元年(1356)に鋳造された。時宗が興隆期に達したころといわれる。その後永正10年(1523)に後北条氏によって小田原に持ち去られ、さらにほかの寺に移転されたが、江戸時代の寛永3年(1626)に遊行寺の壇信徒によって取り戻されて今日に至っているという。
俣野大権現
本山は呑海上人の実兄であり、当時の地頭であった俣野五郎景平が土地と本堂以下の建物を寄進して開山された。景平公の没後に俣野大権現として山内に祀られた。
参考:寺内解説板、歴史読本(新人物往来社)ほか