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黒門
金峯山寺の総門であるとともに吉野一山の総門でもある。このような様式は高麗門とよばれ、城郭によく使われるという。この門は昭和60年秋に改築されたとある。(説明板より)
前方に延びる道は大峯奥駈道といって、吉野山から熊野まで大峯山系の稜線伝いに続く修験者の修行道。総延長170kmにおよぶという。 |
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仁王門
室町時代の建立で国宝。
本堂(蔵王堂)の北側に背を向けて建てられている。、これは、熊野から吉野へ(南から北へ)向かう巡礼者と吉野から熊野へ(北から南へ)向かう巡礼者の双方に配慮したためという。 |
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蔵王堂 国宝
金峯山寺の本堂である。豊臣家の寄進で再興されたもので天正12年(1592)の建造である。木造の古建築としては東大寺の大仏殿に次ぐ規模といわれる。2階建てのように見えるが、一重裳階(もこし)付きの、いわゆる竜宮造りである。そのためきわめて豪壮な外観を呈している。本尊である蔵王権現像3体(重文)を安置する。秘仏のため非公開であるが、3体の蔵王権現は、過去、現在、未来の三世を救済するために釈迦如来、千手観音菩薩、弥勒菩薩が姿を変えてあらわれた仮の姿であり、修験道の根本本尊であるとされる。
堂の前の石柵内には4本の桜が植えてあるが、ここは元弘3年(1333年)、北条軍に攻められた後醍醐天皇の皇子である大塔宮護良(おおとうのみやもりよし)親王が落城前に最後の酒宴を催した故地とされ、四本桜とよばれている。 |
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観音堂
蔵王堂正面横に建つ。
室町時代の建立とされるが、蔵王堂の古材を用いたと言われる。堂内にはこれも室町時代の十一面観音像を祀る。
左手の銅燈籠は文明3年(1471年)の作で、重要文化財に指定されている。 |
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愛染堂
観音堂に隣接する。
明和7年(1770)の建立で当初は経堂だったが、明治になって護摩堂になり、昭和60年に蔵王堂から愛染明王挫像を遷座して愛染堂と改称したという変遷を経ている。
本尊の愛染明王坐像は江戸時代の作で、もとは吉野奥千本にあった安禅寺愛染堂に祀られていたのが、明治初年に廃寺となったために蔵王堂に移されていたという。 |
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吉野朝宮址
蔵王堂下の南東台地にあり、後醍醐天皇以来4代にわたって南朝の皇居があった地である。現在は南朝妙法殿が建つ。
後醍醐天皇は足利尊氏らの奮戦により、鎌倉幕府を滅ぼして建武の新政を始めたが、公家偏重に武家の不満は高まり、尊氏は後醍醐天皇に迫って光明天皇に譲位させ幕府を創設した。後醍醐天皇は京都を脱出して吉野に逃れ、ふたたび帝位に就き、ここに北の京都と南の吉野のふたつの朝廷が60年にわたって並立することになった。南朝は1392年の後亀山天皇のときに北朝と合一して終わったのである。
この事件は朝廷と武家双方の内外の権力争いによるものだが、こんな山奥に皇居があったとはいまさらのように驚く。 |
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吉水(よしみず)神社正門
もとは金峯山寺の僧坊・吉水院(きっすいいん)で、明治の神仏分離の際に神社となった。
後醍醐天皇が吉野に逃れたときに仮の皇居としたために後醍醐天皇を主際神とし南朝方の忠臣であった楠木正成も祀られている。 |
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右が本殿、左が書院。
書院には後醍醐天皇の玉間と、源義経・静御前がかくまわれたときの間が保存されており、いずれも重要文化財となっている。 |
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近鉄吉野駅からすぐの千本口から吉野山へはロープウェイが架けられているが、このときはどういうわけか動いておらず、高低差100メートルの吉野山までの山道を登る羽目になった。七曲がりの名のとおり急勾配のジグザグ道でちょっとした登山だったが、高度があがるにつれて眺望が開けて吉野の山が広がってきた。この写真は登山道からの紅葉風景。
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吉野といえば千本桜だが、この写真は吉水神社わきの「ひと目千本」展望台からの景観。白っぽい部分が落葉した桜の木で、おびただしい数の桜が見渡せる。春になって一斉に開花するとさぞかし見事だろう。秋も紅葉と混ざって負けず劣らず美しい。春にも訪れたいが持病の花粉症をなんとかしなくては無理かもしれない。
因みに、吉野山地区は下から上に向かって下千本、中千本、上千本と名付けられている。全山が桜で覆われていることを示しているのだろう。
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宿舎の竹林院群芳園の庭園。この庭園は大和三大庭園のひとつに数えられる名園。 |
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