大学時代のMくんの誘いで久しぶりの山歩きを楽しむことになった。行く先は尾瀬である。むかしから一度行きたいと思っていながら、なかなか機会がなかった。なにしろこのところ、本格的な山には行っていないうえに運動不足もあり、いささか自信もなかったが、それでも一旦山にはいって独特のにおいの山の空気を吸うと、エネルギーを補給されたように力が湧いてくるのは不思議である。
尾瀬はいま、自然保護のために厳重な規制があって入山するのも大変である。一般的な入り口は鳩待峠(はとまちとうげ)だが、一般車の入場は禁止されているのでここまではマイクロバスかタクシーではいらねばならない。しかも夜間は登山道路が閉鎖されてしまう。朝5時の開門までの間どこかで時間を潰さねばならない。そのために、駐車場を兼ねた休息所があって一般車はここで夜明けまで待って、クルマを置いて乗り合いタクシーなどで山にはいるのである。われわれは新宿発の夜行バスだったが、開門時刻直前にゲートに着くように時間を調整しながらの走行だった。バスは30人乗りほどのマイクロバスで、座席は狭くリクライニングもなしでなかなか寝られない。これは行ってみてわかったが、登山道路の道幅が狭くカーブもきついために、大型バスが走れないためである。空が白んできたころゲート前に到着したが、同じようなバスや乗り合いタクシーがすでに行列している。5時きっかりに門が開けられて車の列が粛々と動き出す。急坂とヘアピンカーブだらけの道路を20分ほど登ると鳩待峠に到着する。
峠には広い駐車場があって、かたわらに鳩待山荘(宿泊できる)と食堂、売店がある。次々に到着するバスやタクシーから続々と人が降り立つ。ついさっきまで雨が降っていたらしくまだ霧が残っている。冷たい湿った空気に触れて寝不足の目が覚める。まずは冷たい水で顔を洗って、腹ごしらえをして出立する。多くの人はここから尾瀬ヶ原の湿原に降りてゆくが、我々が目指すのは至仏山である。登山口で登山者カードを書いて歩き出す。空気がすがすがしい。あちこちに野鳥がいるらしく、ピーチクパーチク、ホーホケキョと、かなりにぎやかである。なんとか見つけようとするがわからない。いい声なので録音でもしたいくらいだ。
雨上がりのため足もとは良くない。ぐちゃぐちゃの泥道や、水が流れていて沢になっているところもある。石伝いに歩こうとするが浮石だったり、滑ったりするので用心しなければならない。ところどころに木道や木製の階段が設置されているが、これも泥などがついていると滑りやすく危険である。この山は6月30日まで入山禁止になっていただけあって山蔭にはまだ雪渓が残っている。
周りには草木が生い茂っているが、高山植物の宝庫と聞いて、いわゆるお花畑を想像していた。ところがそのような状態ではなく、うっそうと茂るなかにときどき花が咲いているという具合で、注意して探さないと見落としてしまう。尾瀬では草花や枝一本折ってもいけないので、野生のままに放置されているからだろう。珍しい花を見つけるたびにシャッターをきるが、その花の名前がわからない。もともとどちらかというと”花おんち”なので高山植物などになるといっそうダメである。あとで調べなければならない。野生のままに放置されているためか、虫の攻撃には参った。ブヨだか蝿だか羽蟻だかわからないがとにかくまとわりついてきて、いくら掃ってもついてくる。なかには刺すヤツもいて始末に負えない。これが自然なんだと言われれば仕方がないが、この虫めらだけは願い下げである。もっとも、山ヒルに吸い付かれなかっただけましかもしれないが。
勾配がだんだんきつくなってくると口数も少なくなってくる。息も切れてくる。陽が昇るにつれて霧が薄らいで明るくなって上空には青空も見えてきた。日がさし始めると、こんどは暑さとの戦いである。それでも、順調に歩いていると、前を歩いている団体さんに追いついてしまった。年配の男女で狭い道一杯に広がっておしゃべりしながらなので、追い越せず渋滞してしまう。こういうところに来ても下界の道と同じような感覚でいる。リーダーが気が利かないのである。早朝なので降りてくるパーティーはいないが、上りだけでこのような混雑は困ったものである。
木道が架けられていないところは、相変わらずの泥道である。何回も滑ってしりもちをつきそうになって危うく踏みとどまったが、そのたびに無意識にカメラを高く掲げていた。買ったばかりの新レンズを壊してなるものか。首からカメラをぶら下げているが、高い段差を乗り越えるときが一番あぶない。ヒョイと岩角にレンズをぶつけたら一巻の終わりである。体も疲れるが気も疲れる。
標高も高くなって、だんだん視界が開けてきた。森林限界が近づいたのである。尾瀬は尾瀬ヶ原という広大な湿原のほかにも、もっと標高の高い山の上にも湿原がある。いずれも、「なんとか田代」と名づけられているが、この「田代」には湿原、または湿地帯という意味があるのだろうか。このコースにも途中、「オヤマ沢田代」という湿原がある。尾瀬ヶ原と同様に二本の木道が架けられていて尾瀬っぽい風景となっている。霧がでてきて幻想的な雰囲気である。
森林限界をでると急に霧が晴れて見晴らしが良くなってきた。その代わり日差しがジリジリ照りつける。いま全国各地で豪雨災害が起きているので、ここも天気はどうかな?と心配したがまことにラッキーであった。見晴らしが良くなって遠くの山や尾瀬ヶ原が見えてくる。山のなかにこんなに広い湿原があるとは、いまさらのように驚いた。この湿原の大部分はなんと東京電力が地主だそうで、そういえば木道の板の一枚一枚には東電マークが焼印されていた。発電用の水資源涵養のために買い取ったらしいが、最近は水力発電は少なくなってそれほどの必要性もなくなってきたという。しかし、自然環境保護の立場からもこれまでの東電の尽力は大きな意味を持つ。最近は規制が厳しくなったせいか、尾瀬への入山者数は減少傾向にあるという。これは自然保護にはいいが、観光業者などにはマイナスとなる。しかし、規制をゆるめれば一気に荒廃に向かうことは目に見えている。東電や行政は智慧を絞ってこの貴重な財産を守る手立てを講じて欲しいものだ。
さて、山道はますます険しくなって巨岩が立ちはだかるようになってきた。写真を撮っている場合でないのでカメラをザックにしまって両手をフリーにする。巨大な岩が重なっていて、足場を確保して両手を使ってひとつを乗り越えるとまたつぎの岩が待っている。山によっては鎖などがあって岩場はそれにつかまって登れるようになっているが、ここにはそんなものは一切ない。全部自力で登らなければならない。体力が一気に消耗する。しかし苦しいが高度は稼げる。しばらくこの岩場を進むと尾根に出てその先にピークが現れた、小至仏山(2162m)である。最後の岩場を登りきると頂上に出た。周りには這い松のなかに石楠花が咲いている。晴天で太陽は照り付けるが涼しい風が吹いていてなんとも心地良い。稜線の先には至仏山が雲に見え隠れしている。下には尾瀬ヶ原が見える。いい眺めだ。苦しい登りの末の涼しい風とこの眺望!山登りの醍醐味である。しかし、正直言ってかなりバテた。日ごろの運動不足がモロに効いた。しばらくボーッとして放心状態になる。あまり空腹感はないが水ばかりを飲む。
下からは続々登山者が上がってくる。眺望を見てみんな一様に歓声をあげて写真を撮り、ひとしきり何かを食べて休憩すると先を急ぐ。つぎの至仏山に向かうのである。われわれと同じくらいの年配者も多いがみんな元気だ。こちとらはあまりにこの場所が心地よくて歩くのが厭になってしまった。至仏山はというとあと1.1kmとある。時間にして1時間弱くらいか。もう見えている。しかし見えていてもなかなかたどりつけない山は多い。そのときは、「至仏山はここからよく見えるし、もういいや」と思った。かつて若いときは八ヶ岳の主峰赤岳から権現岳を縦走したり、中央アルプス駒ケ岳の千畳敷までをロープウェイに乗らずによじ登ったりしたものだが、癪だがやはりトシには勝てない、とつくづく思った。で、結局小生のわがままをMくんが呑んでくれて引き返すことにした。
またさっきの悪路を歩くわけだが、山は下りのほうがきつく、とくに膝にくるので慎重に行く。しかし、下りは気分的に楽である。あえぎあえぎ登ってくる人たちに「こんちは!」などと声をかけ、「あとどれくらいですか?」と訊かれて「もう少し、がんばって!」などと、途中で引き返してきたくせにいい気なもんである。尾瀬ヶ原を見晴らす、テラスのある展望台で休憩していると、3人連れの女性が下りてきた。聞いてみると早朝に尾瀬ヶ原のほうから登って、至仏山を通ってここまで来たという。そのコースは勾配がきつく距離も長い難コースである。30、40歳代とおぼしきそのご婦人たちはケロッとした顔で先に行ってしまった。追い抜かれたオヤジたちはやっと腰を上げて歩き出す。登っているときは夢中で気づかないが、こうして余裕を持ってあたりを見まわすと、「結構登ってきたんだな」と気がつく。鳩待峠はまだ先である。
悪路は相変わらずで、へんなところに踏み入れるとズブリと沈む。段差のたびにちょっと立ち止まって慎重に足場を決める。団体が登ってくると脇によけて通り過ぎるのを待つ。こんなことで上りよりかえって時間がかかるようだ。そんなこんなで黙々と歩いていたら、Mくんがこけた。木道上の泥で滑ったらしい。起き上がったが左足首が痛いという。筋を伸ばしてしまったらしい。なんとか歩けるというのでゆっくり下る。このさきはひどい段差がなくなってきたのが幸いだった。それでも小一時間歩いてやっと鳩待峠に着いた。
峠は山を下りてきた人や尾瀬ヶ原を歩いてきた人たちで、朝にくらべるとにぎわっている。それぞれの顔には疲れはあるものの、達成感に満たされたようななごやかな表情がある。登山靴の泥を洗って昼食をとる。駐車場にはたくさんのバスやタクシーが停まっていて帰り客を待っている。われわれのバスはまだきていないので、ベンチに腰をかけてしばしボーッとする。風は冷たいが照り付ける陽が暖かい。やがてバスがきて乗り込むと、バスは温泉ホテルに向かった。このツアーは温泉付きなのである。実際これはありがたい。おかげで汗と疲れを流してすっきりして帰ってきた。
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