大相撲 立ち合いの変化


春場所で新横綱稀勢の里が奇跡の2連勝で新横綱連続優勝を成し遂げたが、その2連勝した対戦相手である大関照ノ富士の取り口に批判が殺到した。14日目の琴奨菊との対戦で、立ち合いで低く突進してきた相手を瞬時に右にかわしてはたき込んだ結果、相手がもんどりうって土俵を転げ落ちたのだ。あまりの早さに見ていて何が起きたのかわからなかった。どう測ったのか0.2秒だったとの報道がある。いわゆる「変化」という取り口だ。これはときどき見られるものだが、決してほめられたものではない。とくに上位力士の変化には厳しい目が向けられる。このときも場内はブーイングの嵐で怒号が飛び交い騒然となった。協会関係者などからも苦言を呈する声があがった。

ところが、これらの批判に対して批判する動きがあった。とくに場内から照ノ富士に対して「モンゴルに帰れ!」というヤジがあったとしてこれを問題にしているのだ。ここ10年以上の大相撲を支えてきたモンゴル勢に対する差別だ、というのである。たしかに一理はあるが、ずるいことをしたことに対する抗議の意味であって、もともと口の悪い大阪の人たちのことで、とくに「差別」という意識などはないのだろう。ただ久々の日本人横綱の誕生の勢いで多少の日本びいきが影響しているのかもしれない。いずれにしても好ましくはないが、目くじらを立てるようなことではない。

当の照ノ富士は批判は承知のうえだった、と言っているらしいが、どうしてもあの一番は勝ちたいと思っていたはずだ。というのは、前日に稀勢の里が日馬富士に敗れ、星が並んだ上に負傷してしまったのを見て、自身の優勝を意識したに違いないのだ。だからこの一番には勝っておかなければならない。しかし痛めている膝のことを考えると、琴奨菊の強烈なぶちかましをうけとめるにはこころもとない。琴奨菊にとってもこの一番は先場所陥落した関脇から大関に復帰する最後のチャンスだ。それだけに必死で突進してくるだろう。そうなると、立ち合いの変化やむなし、の考えに至ったと思われる。照ノ富士は土俵に上がってから考えたと言っている。このように、やりかたはほめられないが、力士が状況を判断してやむを得ずとった戦術と理解したほうが良い。

そして、照ノ富士は、そのあとの取り組みで2敗となった稀勢の里と翌日千秋楽で、2番を取ることになって結局連敗し、新横綱連続優勝に加担してしまった。
この2番の取り組みでは稀勢の里にも立ち合い変化があった。このときはいずれも照ノ富士が変化に追随したため効果はなかったのである。稀勢の里としては利き腕が使えないために、やはり「変化やむなし」でいったのだろう。しかしそれは封じられたので無傷の足を使って動き回り、膝が悪くてついてこられない相手を土俵際の大逆転で勝負をつけたのだ。両者とも手負いの傷があっての立ち合い変化だったということができる

このようにフェアではない取り口で負けることもあるのだが、相撲の世界では常に「負けたほうが悪い」のである。そんなことは、仕切っているときに察知するのが当たり前というのである。一般には理不尽のようだが、相手の非を咎めるのではなく、自分の至らなさを自覚するのが相撲道の精神なのだ。

稀勢の里は14日目に負傷をおして強行出場し、鶴竜と正面から当たったが力が出せずに寄り切られた相撲と、千秋楽での注文相撲も含めて「あのようなみっともない形になってしまった」と言って、自身の目指す相撲とは違ったものになったことを反省しているという。なんと殊勝なことか。

相撲は神技であって普通の格闘技ではない。いかに一生懸命に相撲に打ち込んでいるかが大事なことで、土俵上の勝ち負けはその結果である。神様の前ではごまかしが効かないのだ。
(2017.04.05)

大相撲関連ページ:
大相撲 驚愕のドラマ
ようやく叶った日本中の願い
雌伏十年
大相撲の今
大相撲の倦怠感